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2006年03月21日
冬季競技の厳しさ
トリノパラリンピックが終了し、本県代表の鈴木猛史は、DHで日本人最高位の4位入賞を果たしたものの、得意のSLで思い描いた結果を得られず悔し涙を流した。傍から見れば4位入賞はすごいこと。でも本人のいままでを考えれば悔しいのは当然だろう。
今回、痛感したのは冬季競技の厳しさだ。主なメイン大会に合わせて数々の大会をこなしていくのは、どの競技も一緒だが、雪の降っている期間が限られている冬季競技は当然ながら雪が降っている期間にしかできないため、シーズン中に「こんなに出るの!?」というほどの連戦をしなければならない。
今回、鈴木猛史をはじめ、トリノパラ日本代表のスケジュールは、シーズンが始まって、ジャパンパラリンピックなど国内大会のほか、韓国の遠征、IPCワールドカップ、イタリアワールドカップ、そしてトリノと10日から2週間間隔で国際大会が入っていた。
それでも、国内の大会を回避するなどの調整を行っていたものの、通年をとおして行う競技に比較しても大変であることは明確である。
しかし、県障害者スキー協会長斉藤さん曰く、「これは仕方がないこと。」なのだ。
仕方がない以上、体調管理などの自己管理はもちろん、それ以上に重要となるのは、自分にあった疲労回復の術を身につけなければいけないかにかかっているということだ。若いからといって丈夫なわけではない。若く成長過程にあるからこそ、実は全身に疲労が溜まりやすい。よって免疫力が下がる。
ベテランで30代の選手は経験という強い味方もあるが、加齢に伴って衰えている自分を自覚し、自身のケアや疲労回復には万全の体制で臨んでいるから本番で力を発揮できるのである。大日方がその典型的な見本であった。
ジュニア世代の若い選手は、若いから大丈夫と過信しがちだが、そこが案外落とし穴だったりする。若い選手こそじゅうぶんな休養が必要なのだ。
残念なことに今回、猛史は熱発してしまった。40度の高熱は、あっと言う間に筋肉を落としてしまうし、タイムを競う競技での熱発以後の三半規管の機能は、いつもとは比べまともじゃない。風邪は自分の責任だが、ジュニア選手の場合は競技団体の責任も否めない。昨シーズンのオーストリアで、インフルエンザの選手を連れて行き選手団に蔓延したこともあった。そうした選手団としての管理も今後の課題となるだろう。
こちらは長年大切に育ててきた選手を預けたら、もう何もできないのである。しかし、起きてしまったことは悔やんでも仕方がないので、次につなげなければならない。
今回、こうした経験をしたことで、今後の本県の選手強化事業方針も明確にできた。いままでは希望した競技団体ごとにトレーナーを派遣したが、本県在住の日本代表及び日本代表候補の選手には、本県専属トレーナーに個別に対応し、自己管理ができるようにバックアップしていきたいと思う。
さて、確かにパラリンピックは特別な大会だ。地元の支援はすさまじいものがある。これは大変に有り難いことで、今後も県民のみなさんには引き続き支援をお願い申し上げたい。
また、猛史には特別な理由が多々あったので、注目もトリノオリンピックに出た選手以上の盛り上がりだった。しかし、「日の丸」を胸につけるとは、こういうことなのだ。その応援を力にすることができたとき、メダルを手にできるはずだ。
鈴木選手は、「パラリンピックを楽しみたい。そしてチェアスキーをもっと多くの人に知ってもらいたい。」と言っていた。いつもどおりの滑りができれば、結果、メダルが獲れて十分に楽しむことができる。と、関係者もごく自然に考えていた。
また、競技のCMについても猛史はその役目をじゅうぶんに果たしているし、結果を残せば考えている以上の波及効果を生み出すのは明白であったので、心配せずに競技に打ち込んでほしかったが、なかなかそうはいかなかった。本人はカメラの前でいつも以上によく話しをしてくれたし、日本代表としての責務を果たそうとがんばっていた。あとは、競技に集中できる環境を作ってあげられなかった、わたしたち大人のバックアップ体制の問題だ。競技の普及や広報は、福島県障害者スキー協会のジィジィやお師匠さんたちが行うので今後はそうした心配はいらないことを本人に伝えなくてはならない。
鈴木猛史と同じく、金メダルを有望視されながら獲得できなかったトリノオリンピック、スピードスケート男子500mの世界記録保持者加藤条治選手が、地元山形の講演でこんなことを言っていた。
「負けて知ることもある。」
「6位という結果を決してマイナスにはとらえていない。負けたことで知ることもたくさんあるし、これから成長できる材料にしていきたい。」
そう、負けて知ることは、勝って知ることより重い。自分のことを言って恐縮だが、私は車椅子バスケットボールの日本代表ではじめて94年の世界選手権に出場したとき、私自身もチームも未熟であったため、この大会で日本は連盟始まって以来の7位という、先輩たちが築いてきた世界ランキングを3つも下げた最悪の結果と歴史を創った。この悔しさを原動力に2年後のアトランタパラリンピックでは5位、そしてシドニーパラリンピックで銅メダルを獲得した。このときのコートに出ていた5人のうち4人が、この負けを経験していた選手だった。そして監督も94年世界選手権の時にマネージャーをしていた人だ。これも94年の最悪の結果があってこそのものだったと今でも思う。
私と加藤条治選手から「負けは、勝つための原動力だ」という言葉を猛史に贈りたい。
鈴木猛史はトリノで数々の経験をした。次のバンクーバーではまだ21歳だ。必ず目標を達成するに違いない。パラリンピックの真の楽しみを知ってほしいと切に願う。しかも猛史は50ん歳まで競技を続けてパラに出場すれば10回も出ることができる。十分時間はあるし、ギネスものだ。
猛史の挑戦はまだ始まったばかりだ。可能性は無限大だ。
さぁ!また、みんなでがんばろう!今度はいままで以上の応援がある。まずは、ゆっくり休もう!!そして、忘れ物はバンクーバーへ獲りにいけばいい。
投稿者 letssports : 2006年03月21日 18:15